「ふつうの相談」を家庭医療的に読む

ふつうの相談0とは、不調を「個人症候群」(中井久夫)として扱っているときに生じるものであり、疾患として診断、ラベリング、抽象化される前の原初の状態のものを言う。ふつうの相談0を持ちかける相手は、中井の言う熟知性の間柄にある人たち、つまり主に親しい友人や家族である。専門家が介入する前に、素人同士でケア/治療が行われる。医療人類学的には、クラインマンのヘルス・ケア・システムで言う民間セクターでまずは処理される。ふつうの相談0は日常の関係性の延長上で親しい人に「自然に」なされるものである。そして、家族や熟知の間柄で解決できない問題が専門職セクターや民俗セクターに持ち込まれる。

医師は、一般的な解釈ではクラインマンのヘルス・ケア・システムの中では専門職セクターに属するものであるだろう。しかし、家庭医とは民間セクターと専門職セクターの境界に位置しており、ふつうの相談0を扱う。ここでは、家庭医は今まで築いてきた医師ー患者の信頼関係、つまり継続性を担保に、家族や友人の並びにある熟知性の間柄にある人の立場に立っている。そして、個人的に患者をよく知るものとしてふつうの相談にのり、熟知性が破綻したときには専門知を使って患者を診察する。家庭医はカントの世間知(正常=ふつう)と専門知(異常、病気)の2つを使いこなす必要がある。ふつうの相談0で行われるケア/治療には、クラインマンの説明モデル=解釈モデルが使われる。このモデルによって問題を定式化し、介入する。説明モデルは民間セクターでは世間知が基準となり、専門職セクターでは専門知が基準となる。世間知はIllnessを扱い、専門知はDiseaseを扱うと言ってもよいだろう。

 

治療者は特定の理論的枠組み =説明モデルを用いて、ユーザーの抱えている問題を定式化し、説明し、それに基づいて介入する。そのプロセスで治療者とユーザーは説明モデルをコミュニケートし、交渉し、修正しながら共有することになる(共有できないとその治療は中断することだろう)。この共有された物語に沿って、ユーザーの変容が成されるのである。

 

これは患者中心の医療の、「共通の理解基盤を見出す」ことにほかならない。

そして、熟知性の上に立つ患者ー医師関係は、「個人症候群」として患者の問題を扱い、患者の個別性を重視したExpert Generalist Practiceに繋がっていく。

パワー・オブ・ザ・ドッグ

ホモソーシャルな世界で精神的な絆だけでなく,肉体的な絆も求めてしまう自分に,フィルは嫌悪感を抱いていただろう.イエール大学で古典を専攻し,主席で卒業したほど教養があったにも関わらず,アカデミックな世界ではなく,カウボーイとなり世間の期待する理想の男性像を具現化しようと思ったのか.自分のセクシュアリティの受身的な部分,女性的な部分を自覚し,それを必死に隠そうとしていたのか.

それを見てしまったピーター,男たちにからかわれても毅然としていたピーターに惹かれ始めたフィルは,自分と同じ匂いを感じて,てなずけようと考えた.
 
ピーターはフィルとは異なり,体格も細く,その当時の(そして今もほとんどの)男の理想の体型とはほど遠く,服装も小綺麗だった.それが標準と異なることはピーターもわかっていただろう.ピーターは自分がゲイであり,クイアであることに自覚的であり,それを隠そうとは思っていなかった.自分がホモソーシャルの世界に入れないこともわかっていたし,入ろうとも思っていなかっただろう.むしろその粗野や下品さを軽蔑していた.
 
ある日医学書感染症のページを読んでいたピーターは,フィルにおしえてもらったばかりの乗馬で荒原の先に行き,倒れてハエがたかった牛を見つけると,外科用の手袋をはめ,その牛の革をはいで持って帰る.
 
フィルとピーターは乗馬に出かけ,うさぎを見つける.
怪我をして木材の下から動けなかったうさぎは,自分が明らかになることに怯え,隠していたフィルの暗喩だったのか.木材によってうさぎは足に怪我をし,またそのときフィルも手に深い傷を負った.その手負いのうさぎを,ピーターは優しくなでた後に,こともなげに殺して楽にさせてやった.
フィルとピーターが牧場に帰ると,ロープを編むために必要だった牛の革は,酩酊状態のローズの嫉妬により先住民に売られてしまっていた.怒り狂ったフィルにピーターは、自分がフィルに憧れてはいだ牛の革を使ってほしいと懇願する.その牛の革は,あの日ピーターが行き倒れになった牛からはいだものだ.
夜中,真っ暗な倉庫で二人はおちあい,フィルはロープの仕上げをするために牛の革を水につけて、傷を負った手で洗い,編み込んでいく.ロープを編むことは,フィルにとっての愛情表現であり,性的な行為の暗示となっている.ピーターは、フィルの最愛の人であるブロンコ・ヘンリーの鞍をやさしくなでた後、自分の吸っているタバコを差し出し,フィルにくわえさせる.その仕草はまるでフィルの顔をなでているようだ.あのうさぎのように.ピーターはフィルを大きな瞳でまっすぐに見つめる.その眼差しは挑発的であり,ゲイであるフィルを誘惑するものであり,またもうすぐ死ぬ運命のフィルに対する哀れみを含んでいた.
そしてピーターは、ローズをフィルの圧力から解放するとともに、フィルを男らしさとホモセクシュアルの相克から解き放った。

「たべきる」と「使い切る」

三浦哲也の『食べたくなる本』の,「おいしいものは身体にいいか」という表題の文章では,料理家の有元葉子の「暮らし」について語られている.本によると,有元は食を含めた生活全般を,「循環」の相から見つめ直そうとしている.土着のものを無駄なく使い切り,その食材のポテンシャルを最大限に発揮させる料理をし,冷蔵庫には不要なものはためない,食材の仕入れからゴミ出しまでをスムーズに循環させる.そこから食だけではなく,生活全体,身体も循環の相で捉えることで暮らしを構築していく.実際,常人離れした潔癖さで生活していた有元のことばが下記である.
大根でも豆でもなんでも、私たちの口にするものはすべて、命を与えられて世の中にあります。それを最後まで「たべきる」「使い切る」ことで初めて、そのものが生かされるー。
自分もそうです。自分自身も使いきりたい。「充分に生ききったね」と思ってもらいたいし、自分自身も「充分に使いきった。はい、さようなら」と思える人生が理想です。そのためには、ちゃんと食べて、ちゃんと動いて、健康でいなければなりません。料理も家事も人生も大事なことは一緒。要は自分を使いきることです。

 

これは98歳で慢性心不全,慢性呼吸不全のある女性が言ったことばそのものである.
この身体を使い切りたいんです,使い切って死にたいんです.これからわたしの身体がどうなっていくのか,見てみたい.

 

この二人に共通する凛としたたたずまい.誰にもよりかからず,死に対して正面から向き合う姿勢は,死を生の帰結として自然に捉える生き方を示している.
 
有元のことばは,医学的なメカニズムよりもより自分の生活に則した「循環」というモデルで自らの身体を捉えたほうが腑に落ちるという,医療者ではない一般人の感覚を代表している.循環のモデルは科学的にはすべて解明されてはいないため,一部は憶測に過ぎないとして医学的な真実としては認められないだろう.しかし,そこには直感的に真実が含まれている.科学はその直感に追いつくことはできていない.こうした,科学的ではないが,「循環」などの直感的な身体のモデルに則した医療が,補完代替医療(Complementary and Alternative Medicine; CAM)である.あとから出てきのに自分こそが正しいと主張する(西洋)医学には抵抗を感じるが,近代的科学モデルに則した医学によって,一定の水準をクリアした,標準化した医療を受けられるのであるから,その功績に準じて現代のメインストリームとなっている.CAMはこうしたメインストリームである医学に乗っ取られた自分の身体を,患者自身に取り戻すための方法でもある.言うまでもなく食事療法や栄養の視点はCAMの一環として重要なものである.
 
同じ本から,栄養学を追求した料理家,丸元淑生の本を引用している.
それ(食事に気を配ること)で長生きをしようとは思ってはいない.命を粗末にしてはならないとおもっているだけだ.少なくとも食事が原因で病気になったり,寿命を縮めたりすることはないようにしようと努めているのである.
 
このエッセイは,「死」をテーマとし,「今日は死ぬのにとてもよい日だ」と題されている.プエブロ・インディアンの詩から取られたタイトルである.「今日は死ぬのにとてもよい日だ./あらゆる生あるものが私と共に仲よくしている./あらゆる声が私の内で声をそろえて歌っている」から始まるこの詩に,丸元は「死」の理想の在り方を見る.
食と死はつながっている.常に終わり方=死を意識した生き方がここにある.
 
患者が自分の身体を取り戻すための医療として,解釈学的医療というモデルが提案されている*1.解釈学的医療では,医師が主導権を持つ科学的な医学モデルではなく,患者が主体的に自分の身体をコントロールしていくことをサポートする.そこでは医師が疾患を発見しそれを治療するのではなく,医師と患者の探索により病の体験を共有,解釈し,患者が自らの日常生活を維持する上でのCreative capacityをサポートすることを重視する.Creative capacityとは,病の中にあっても,病が個人の生活にもたらす破壊的な影響に対し,身体的,心理的,社会的に適応することによって,自己を創造していく能力のことである.つまりCarrelのいう「病の中にあっても健康である」状態である*2
 
解釈学的医療は患者との合意によって形成されることから,純粋に科学的であることはありえない.もっというと医学ではなく,医療は当然ながら科学的なだけではない.解釈学的医療にCAMを取り入れることは患者の主導権を保証する上でも自然な選択だと思われる.
 
しかしCAMはしばしば,個別の体験を一般化しようとしがちであり,迷信に近いものになることもある.ある友人は,身体の不調を訴え医療機関を受診し,あらゆる検査をした後になにも悪いところはない,と帰された.医療に見放されたと感じた友人は,なにもしてくれなかった医療に呪詛を吐き,自分で代替医療をはじめた.このような医療不信を招かないためにも,解釈学的医療の視点が重要である.
 
西洋医学とCAMの融合とも言える統合医療を提唱するアンドルー・ワイルは,古代ギリシャの医師たちについて書いている.
古代ギリシャ時代,医師たちは「医神」アスクレピオスの庇護のもとで仕事をしていた.しかし,ヒーラーたちはアスクレピオスの娘にして輝くばかりの美しさで名高い「健康神」ヒュギエイアに仕えていた.思想家で医事評論家でもあるルネ・デュボスはこう書いている.
 
ヒュギエイアを信じる者にとって,健康とはものごとの自然な秩序のことであり,自己の生命を賢く制御した人にあたえられる無条件の属性である.彼らによれば,医学のもっとも重要な機能は,人に「健全な身体に宿る健全な精神」を保証してくれる自然の法則を発見し,それを人々に教えることである.彼らよりも懐疑的,もしくは世俗的な意味で分別のあるアスクレピオスの信奉者は,医師の主要な役割は病気の治療であり,誕生や生にまつわる偶然が引き起こすなんらかの欠陥をただすことによって健康を回復させることであると信じていた.

 

ものごとの自然な秩序を維持し,自己治癒力を伸ばすCAMは,西洋医学に欠けている視点をもたらしてくれる.現代にもヒュギエイアに仕える医師が必要である.

運命と偶然性

 病気になった人は,必ず自問するだろう.医療者なら一度は患者から訴えられたことがあるだろう.「どうして自分がこの病気になったのか?どうして自分だけ?」
こうした患者からの訴えに,わたしたちはどう答えたらいいのだろう?
 
 九鬼周造を研究する哲学者であり,乳癌を患う宮野真生子と,医療人類学者磯野真穂の往復書簡『急に具合が悪くなる』で磯野は,運命を,「生きる過程で降りかかるよくわからない現象を引き受け,連結器と化すことに抵抗をしながら,その中で出会う人と誠実に向き合い,共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気」と定義している.ここで言う連結器とは,患者と非患者などの間の「適切な接し方」を実現するためのパターン化した関係・役割のことをいい,例えば癌患者には余計な詮索をせず,普段通り接しつつ安易な励ましを控える,といった態度である.磯野は連結器,表面的に宮野と接することを拒否し,お互いに傷つく可能性をおそれずに感情を露わに宮野さんにぶつかっていく.
 
 精神科医であり,精神病理学現象学を扱う木村敏は,フロイトを引用し,生きもの以前の,存在として限定されていない生成の中から生命物質が生み出され,生成に存在の性格が刻印されることで個体が発生するという.生命物質の発生と同時に,生命一般は個体の生存へ限定される.そして生命ある有機体に内在する,生命以前の元の状態に戻ろうとする衝迫を「死の欲動」とし,あらゆる生命の目標は死,つまり生命以前の状態にもどることであるとする.また,ニーチェの「力への意志」は「生命」と同義だとし,必然的な生成を,偶然的な存在へと個別化することだとする.必然的な普遍的生命の生成から,個別の存在が偶発的に発生する,という現象を,個別の存在の側から見てみると,偶然の存在でしかない自らが,必然的な普遍的生命の生成と確かにつながっており,ニーチェが「運命愛」と呼んだものは,逆方向から見た力への意志ではないかと提起している.運命愛とは,自己愛とはまったく異なり,偶然的存在が自らの根底にあって自らを生み出しつづけている必然的生成へと向ける「愛」であり,個人が自らの生成を支配する生命一般に向ける受容なのである」.

「風の谷」と対称性

 安宅和人氏の「風の谷」の試み、またコロナ以降の世界の展望、「開疎化」という概念を知り、だいぶ昔にひっそりと書いた文章を思い出した。今回のコロナで、人間(と家畜)ばかりが繁栄し、ひたすら増殖して他の生物や自然環境を圧迫していく未来に希望はないことが明らかになっただろう。あまりに人間に偏った世界では、中沢新一氏のいう非対称性の思考から対称性の思考への転換が必要である。「風の谷」の試みはまだはじまったばかりであるし、それが正しいのかどうか、実現するかどうかはわからないが、少なくとも今までの都市文明とは異なる方向性を示しており、一つの希望であることは確かだ。
 
 
  わたしは小さい頃に、本や絵本を読んだり、テレビを見ていて、小さい動物や植物があっさりと踏みにじられたり、人間の身勝手さでひどい扱いを受けるのを見ると、ひどく心が痛んだ。自分のことのように悲しくて、いてもたってもいられない気分だった。なぜ他の動植物より人間が尊重されるのかがまったくわからなかった。成長すると、そういう気持ちが高じて、人間がいなくなれば自然も破壊されないし、家畜も殺されない、自分が生きてるのがすごく罪なような気がした。いつしかわたしは鈍感になり、自分のエゴの方が優ってそういう感情を抱くこともなくなったが、ときどきこどもの頃の痛みが蘇ってきて苦い気分になる。
  マンガ版の『風の谷のナウシカ』は、わたしにそういうこどもの頃の気持ちをもっとも思い出させるものだ。ナウシカは戦場にいても、敵味方の一人一人、無数にいる虫たちの一匹一匹、腐海の植物にまで愛情を持って接する。 
  マンガ版『ナウシカ』の第1巻の最後には、作者の宮崎駿自身が、「ナウシカ」を生み出す着想について書いている。それによると、「ナウシカ」とは「ギリシヤの叙事詩オデュッセイアに登場するパイアキアの王女の名前」だそうである。「求婚者や世俗的な幸福よりも、竪琴と歌を愛し、自然とたわむれることを喜ぶすぐれた感受性の持ち主」。ナウシカは傷付いたオデュッセイアを助け、生涯結婚せずに吟遊詩人となった。ナウシカを知って、宮崎駿は日本の今昔物語に出てくる「虫愛ずる姫君」を思い出す。この少女もまた、自然を愛し、みんながその頃の流行で眉をそり落としたりお歯黒にしているのに、ひとりだけ白い歯と黒い眉をしていて、世俗を超越していた。周りからきっと変な目で見られたことだろう。宮崎駿のなかで、いつしかナウシカと虫愛ずる姫君は同一人物になって行き、『ナウシカ』が誕生するきっかけとなる。
  中沢新一『人類最古の哲学』は、文化を超えていろいろなバージョンが世界各地に存在する、シンデレラの物語について主に語っている。それらは、枝葉末節は異なるけども、どこのシンデレラ物語でも、大方の筋や意味合いは一緒なのだそうだ。どのシンデレラも、自然=超自然と人間社会、死者と生者などの、さまざまな不均衡のあいだの仲介機能を担うという役割を負っている。彼女はその二つのあいだに立ち、富や価値観などの不均衡を調停し、二つのあいだにコミュニケーションを回復させ、価値を転換させる。身分の低いシンデレラが身分の高い王子様と結ばれたが、彼女の居場所は「カマド」のそばであった。「カマド」は生者と死者を仲介するものとされていた。特にミクマク・インディアンのシンデレラ物語では、中国やヨーロッパのシンデレラ物語に入り込んでいる、経済的欲望や社会的成功などの要素が取り除かれ、「見える」「見せる」外面的要素と、「見えない」高貴なもの、といった主題が入ってくる。
  また、シンデレラの他に「結婚したがらない娘」という物語にも少し触れられている。日本の『竹取物語』やアメリカ・インディアンの神話に出てくるそうした娘は、一般的な、結婚という異なる共同体のあいだの媒介、仲介機能を担うことを拒否し、もっと遠くの月に行ってしまったり、動物の世界に行ってしまったりする。このとき、彼女たちは、人間同士の世俗的な仲介ではなく、もっと遠く離れた異界や自然の世界との仲介機能を果たしているのではないだろうか。
  そこで、ナウシカと、この「結婚したがらない娘」、または(特にミクマク・インディアンの)シンデレラが、結びつくようにわたしには思われる。ナウシカは他の人が見えないオームの心を見ることができ、虫や植物と対話することができる。仲介者の役割を果たしているのだ。
  中沢氏によると、宗教が現実と乖離し、抽象的思考力や幻想の能力で観念の王国をつくることができるのに対し、宗教より古くからある神話はそもそも、あくまで現実との対応関係を失わず、現実と幻想との仲介機能を担うと言う。社会的に価値があるものとされている、表面的な経済活動や社会的成功ではなく、もっと「見えないもの」、自然の贈与といったものに価値を見い出して行き、人間社会とのバランスを取る。しかし、現代の日本に生きるわたしたちは、新興宗教や既存の宗教を信ずることももはやできず、だからといって古くからある神話も、身近な自分達のものとは感じられない。とてもそこに自分達の生きる現実との対応関係を見い出すことはできないのだ。都市や進んだ文明によって「見えない」奥深いモノたちからも分離させられているために「リアルな」生を実感できない、現代のわたしたちは、どうすれば「現実」との対応関係を回復できるのだろうか。古い神話に替わる、わたしたちの神話やそれに対応するものを提示しなければならないのではないだろうか。 
 ナウシカはつまり、宮崎駿がつくり出した、現代の神話なのだと思う。 
 ナウシカは試行錯誤をした上で、最後に人間(あるいは人間がつくったなにものか)が「神」としてこの世界の頂点に立ち、生命や生態系をプログラムすることを拒否し、人間もそのなかに含まれる、偉大な生態系の連鎖にすべてが呑み込まれることを選択する。人によっては、これはとてもエゴイスティックな決断に思えるだろう。浄化のプロセスが終わり、「青き清浄の地」が実現したときに、現在の人間が生きる道を断ってしまうのだから。しかし、そもそも、自分達の都合のいいように、生命をつくり替え、生態系をプログラムした、旧世界の人間、「墓所」こそ、もっともエゴイスティックな存在ではないだろうか。 
 さきほど触れたミシェル・ウェルベックの『素粒子』に描かれる第三次形而上学革命とは、まさに人類が生命を操り、「神」として世界の頂点に立つことではなかったか。人類は新しい種を人工的につくり出し、それが今の人類と取って変わっていく。だとしたら、ナウシカはその人類の「進化」を破壊する者として、例えばガリレオが天動説を唱えた時それを否定した、変化を恐れる旧態已然の人々と同列に立つ者なのだろうか?
  目的的な腐海や虫たちの生態系は、浄化の後の「青き清浄の地」を実現するためにあるが、そこまでの過程にある、現在の人間、腐海、生態系を目的に達するまでの単なる目的のための手段とし、無意味なものとする。目的が定まっている以上、それ以外の可能性を封じてしまうことになる。なんのために、それらは生きているのか?自分達のためでないとしたら?人が誰でもいずれは死ぬことを知っていながら、それでも死までの過程=生を、その瞬間瞬間に生きて行くように、たとえ行き着く先(「青き清浄の地」が実現することで、今の人間や腐海は生きて行くことができない)がわかっていたとしても、人間の手で生命や生態系をこれ以上操作するのではなく、現在の不完全な生を生きて行くことを、ナウシカは選択した。「墓所」という、旧世界の一神教を否定し、人類も生態系の一部として、自分達のために、今の自分達を信じて混沌のなかに生きて行くことを選択した。「墓所」の目指す世界は、人類のみが高所に立ち、あまりに不均衡で平坦な世界であり、だれも仲介者がいない。「墓所」が、光を、清浄でおだやかな世界を目指したのに対し、ナウシカは闇のなかにまたたく光を、清浄と汚濁を選択した。そしてナウシカ自身は、闇と光の、清浄と汚濁の仲介者なのだ。影のない光などありえない。 
 ナウシカは人間のみが君臨する非対称的な世界ではなく、ほかの生きものとのバランスの取れた対照的な世界を選択した。それがたとえ現在の人類の滅亡を意味していたとしても。今回のコロナが非対称的な世界に対する警告だとすれば、わたしたちはやはり対称性を取り戻さなければならない。