「風の谷」と対称性

 安宅和人氏の「風の谷」の試み、またコロナ以降の世界の展望、「開疎化」という概念を知り、だいぶ昔にひっそりと書いた文章を思い出した。今回のコロナで、人間(と家畜)ばかりが繁栄し、ひたすら増殖して他の生物や自然環境を圧迫していく未来に希望はないことが明らかになっただろう。あまりに人間に偏った世界では、中沢新一氏のいう非対称性の思考から対称性の思考への転換が必要である。「風の谷」の試みはまだはじまったばかりであるし、それが正しいのかどうか、実現するかどうかはわからないが、少なくとも今までの都市文明とは異なる方向性を示しており、一つの希望であることは確かだ。
 
 
  わたしは小さい頃に、本や絵本を読んだり、テレビを見ていて、小さい動物や植物があっさりと踏みにじられたり、人間の身勝手さでひどい扱いを受けるのを見ると、ひどく心が痛んだ。自分のことのように悲しくて、いてもたってもいられない気分だった。なぜ他の動植物より人間が尊重されるのかがまったくわからなかった。成長すると、そういう気持ちが高じて、人間がいなくなれば自然も破壊されないし、家畜も殺されない、自分が生きてるのがすごく罪なような気がした。いつしかわたしは鈍感になり、自分のエゴの方が優ってそういう感情を抱くこともなくなったが、ときどきこどもの頃の痛みが蘇ってきて苦い気分になる。
  マンガ版の『風の谷のナウシカ』は、わたしにそういうこどもの頃の気持ちをもっとも思い出させるものだ。ナウシカは戦場にいても、敵味方の一人一人、無数にいる虫たちの一匹一匹、腐海の植物にまで愛情を持って接する。 
  マンガ版『ナウシカ』の第1巻の最後には、作者の宮崎駿自身が、「ナウシカ」を生み出す着想について書いている。それによると、「ナウシカ」とは「ギリシヤの叙事詩オデュッセイアに登場するパイアキアの王女の名前」だそうである。「求婚者や世俗的な幸福よりも、竪琴と歌を愛し、自然とたわむれることを喜ぶすぐれた感受性の持ち主」。ナウシカは傷付いたオデュッセイアを助け、生涯結婚せずに吟遊詩人となった。ナウシカを知って、宮崎駿は日本の今昔物語に出てくる「虫愛ずる姫君」を思い出す。この少女もまた、自然を愛し、みんながその頃の流行で眉をそり落としたりお歯黒にしているのに、ひとりだけ白い歯と黒い眉をしていて、世俗を超越していた。周りからきっと変な目で見られたことだろう。宮崎駿のなかで、いつしかナウシカと虫愛ずる姫君は同一人物になって行き、『ナウシカ』が誕生するきっかけとなる。
  中沢新一『人類最古の哲学』は、文化を超えていろいろなバージョンが世界各地に存在する、シンデレラの物語について主に語っている。それらは、枝葉末節は異なるけども、どこのシンデレラ物語でも、大方の筋や意味合いは一緒なのだそうだ。どのシンデレラも、自然=超自然と人間社会、死者と生者などの、さまざまな不均衡のあいだの仲介機能を担うという役割を負っている。彼女はその二つのあいだに立ち、富や価値観などの不均衡を調停し、二つのあいだにコミュニケーションを回復させ、価値を転換させる。身分の低いシンデレラが身分の高い王子様と結ばれたが、彼女の居場所は「カマド」のそばであった。「カマド」は生者と死者を仲介するものとされていた。特にミクマク・インディアンのシンデレラ物語では、中国やヨーロッパのシンデレラ物語に入り込んでいる、経済的欲望や社会的成功などの要素が取り除かれ、「見える」「見せる」外面的要素と、「見えない」高貴なもの、といった主題が入ってくる。
  また、シンデレラの他に「結婚したがらない娘」という物語にも少し触れられている。日本の『竹取物語』やアメリカ・インディアンの神話に出てくるそうした娘は、一般的な、結婚という異なる共同体のあいだの媒介、仲介機能を担うことを拒否し、もっと遠くの月に行ってしまったり、動物の世界に行ってしまったりする。このとき、彼女たちは、人間同士の世俗的な仲介ではなく、もっと遠く離れた異界や自然の世界との仲介機能を果たしているのではないだろうか。
  そこで、ナウシカと、この「結婚したがらない娘」、または(特にミクマク・インディアンの)シンデレラが、結びつくようにわたしには思われる。ナウシカは他の人が見えないオームの心を見ることができ、虫や植物と対話することができる。仲介者の役割を果たしているのだ。
  中沢氏によると、宗教が現実と乖離し、抽象的思考力や幻想の能力で観念の王国をつくることができるのに対し、宗教より古くからある神話はそもそも、あくまで現実との対応関係を失わず、現実と幻想との仲介機能を担うと言う。社会的に価値があるものとされている、表面的な経済活動や社会的成功ではなく、もっと「見えないもの」、自然の贈与といったものに価値を見い出して行き、人間社会とのバランスを取る。しかし、現代の日本に生きるわたしたちは、新興宗教や既存の宗教を信ずることももはやできず、だからといって古くからある神話も、身近な自分達のものとは感じられない。とてもそこに自分達の生きる現実との対応関係を見い出すことはできないのだ。都市や進んだ文明によって「見えない」奥深いモノたちからも分離させられているために「リアルな」生を実感できない、現代のわたしたちは、どうすれば「現実」との対応関係を回復できるのだろうか。古い神話に替わる、わたしたちの神話やそれに対応するものを提示しなければならないのではないだろうか。 
 ナウシカはつまり、宮崎駿がつくり出した、現代の神話なのだと思う。 
 ナウシカは試行錯誤をした上で、最後に人間(あるいは人間がつくったなにものか)が「神」としてこの世界の頂点に立ち、生命や生態系をプログラムすることを拒否し、人間もそのなかに含まれる、偉大な生態系の連鎖にすべてが呑み込まれることを選択する。人によっては、これはとてもエゴイスティックな決断に思えるだろう。浄化のプロセスが終わり、「青き清浄の地」が実現したときに、現在の人間が生きる道を断ってしまうのだから。しかし、そもそも、自分達の都合のいいように、生命をつくり替え、生態系をプログラムした、旧世界の人間、「墓所」こそ、もっともエゴイスティックな存在ではないだろうか。 
 さきほど触れたミシェル・ウェルベックの『素粒子』に描かれる第三次形而上学革命とは、まさに人類が生命を操り、「神」として世界の頂点に立つことではなかったか。人類は新しい種を人工的につくり出し、それが今の人類と取って変わっていく。だとしたら、ナウシカはその人類の「進化」を破壊する者として、例えばガリレオが天動説を唱えた時それを否定した、変化を恐れる旧態已然の人々と同列に立つ者なのだろうか?
  目的的な腐海や虫たちの生態系は、浄化の後の「青き清浄の地」を実現するためにあるが、そこまでの過程にある、現在の人間、腐海、生態系を目的に達するまでの単なる目的のための手段とし、無意味なものとする。目的が定まっている以上、それ以外の可能性を封じてしまうことになる。なんのために、それらは生きているのか?自分達のためでないとしたら?人が誰でもいずれは死ぬことを知っていながら、それでも死までの過程=生を、その瞬間瞬間に生きて行くように、たとえ行き着く先(「青き清浄の地」が実現することで、今の人間や腐海は生きて行くことができない)がわかっていたとしても、人間の手で生命や生態系をこれ以上操作するのではなく、現在の不完全な生を生きて行くことを、ナウシカは選択した。「墓所」という、旧世界の一神教を否定し、人類も生態系の一部として、自分達のために、今の自分達を信じて混沌のなかに生きて行くことを選択した。「墓所」の目指す世界は、人類のみが高所に立ち、あまりに不均衡で平坦な世界であり、だれも仲介者がいない。「墓所」が、光を、清浄でおだやかな世界を目指したのに対し、ナウシカは闇のなかにまたたく光を、清浄と汚濁を選択した。そしてナウシカ自身は、闇と光の、清浄と汚濁の仲介者なのだ。影のない光などありえない。 
 ナウシカは人間のみが君臨する非対称的な世界ではなく、ほかの生きものとのバランスの取れた対照的な世界を選択した。それがたとえ現在の人類の滅亡を意味していたとしても。今回のコロナが非対称的な世界に対する警告だとすれば、わたしたちはやはり対称性を取り戻さなければならない。